田辺聖子 「欲しがりません勝つまでは」「十八歳の日の記録」
戦時中を女学生として過ごした小説家・田辺聖子さんの「ほしがりません勝つまでは」「十八歳の日の記録」のお話です。 戦争を伝えてくれる書物や映画はたくさんありますが、重々しいものは、見るのに覚悟がいると思います。 こちらの作品は少女の目線で書かれていて、当時市民がどのような温度感で生活していたかわかります。日記なのでリアルタイムの感情を見ることができ、現代の私たちにとってすごく貴重なものです。
- 身近に戦争体験を話してくれる人がいない、いなくなった
- 戦争の話で、重苦しすぎるものは見るのをためらってしまう
- 大阪弁で書かれていると読みやすく感じる
本記事の内容
戦時中、13歳~18歳の日記
終戦までの数年間を書いた日記。少女の「おせいさん」が毎日どう生活し、何を考えていたかがわかる貴重な文章です。
※田辺聖子さんの愛称「おせいさん」と呼んでみます。
当時の高等女学校はいまの中1~高2の子が通っていて、おせいさんは終戦時その上の旧制女子専門学校に在籍していました。
昭和20年の高等女学校への進学率は25%、旧制女子専門学校や女子高等師範学校などへは1%前後というので、かなりのインテリです。
文学少女で、早くから小説も書いた
仲良しの同級生四人組で文学雑誌を作っていたそうです。一流の人は、学生時代から自分がなにをすればいいかわかってるんですね。
「一生、女の子」にはこの雑誌のカラー写真が載っています。文章だけでなく、少女のイラストもすごく上手で、小説ページもバラやリボンの装飾が手書きでしてあってすごく楽しい。女子学生なら絶対好きなテイストです。
さすがに雑誌には載せていませんが、自殺した少女の遺書という設定の文章もあります。 このころの若者に、世間に絶望して自殺することがいさぎよいとかかっこいいという意識があり実際そういう事件もあったのだろうと思います。
昭和二十年の辺りは戦争のことに集約されてしまうけど、いろんな文化や思想があったはずです。そんな日常もたくさん見えなくなってしまったのがもったいないですね。
女学校の低学年のころは、 四年生や五年生のカッコイイ女の先輩にあこがれていたそうです。
おせいさんが憧れる先輩は、理不尽な怒り方をする男性教師にも屈せずハッキリと自分の意見を言ったりします。
おとなしいおせいさんにはそんなことはできません。なるべく先生に目をつけられないようにしています。
三つあみをくくる髪ゴムの色が学年ごとに指定されているという記述もありました。白黒写真では決してわからないことなので、ときめきました。黄色や赤、紫などとありけっこう華やかです。
その色=上級生なので、もはや色にあこがれの気持ちを抱きそうです。
令和の現代でも推しの色を身につけたりしますよね(ちょっと違うか)。
途中まで英語の授業はあったようです。
敵国語として使用禁止になっていきますが、身の回りの英語で呼んでいるものをいちいち日本語に直すのはけったいだなという感覚もあったみたい。 現代と変わらないくらい、英語で呼んでいたものが多いように感じ取れました。
購買で買った物(サイダーなど)の記録を先生がチェックする描写もあります。
チェックするのも異常でひどいが、購買でおやつを買うこともできたんですね。終戦の間際になるまでは、今とさほど変わらないような面もありそうです。
軍国少女で、日本国民が最後の一人になるまで戦うと信じた
文学少女と軍国少女はまったく似つかわしくないイメージなのですが、おせいさんの場合は両方です。二つの素質が煮詰まって昇華され、超文学少女かつ超軍国少女でした。
日本軍は「一億総玉砕」と言い、本土決戦では国民すべて玉砕の覚悟で臨めと説いたので、純粋な少年少女たちはそれが正しいと思うほかありません。
戦局に危うさを覚える父親などの大人に本気で怒り、失望していました。話が合うのは同じく軍国少年の弟です。
小学生のころから戦争一色の教育をされてきた少女は、こんな風に考えていたんですね。
ちょうどおせいさんと同じ年頃の男子が学徒出陣で戦地へ出ていき、おせいさんは日本の未来は私たちの世代にかかってるんだ、と意気込んでいました。
夜は空襲警報がなるたびに、奉仕活動?のために走って出ていきました。
お母さんが危ないから行かないでと言っても、使命感に燃えているため迷うことなく飛び出すおせいさん。
灯火制限された町は真っ暗闇で、少しのさきも何にも見えなかった、でも覚えている道順に沿って走ったそうです。
極限状態での人間の感覚はすごいんですね。女子学生なのに、闇討ちする武士みたい。
奉仕活動にきた学生で集まるのだが、一晩中待機していて、特に何かしたことはなかったということ。
指示するほうも混乱していて、もはやどんな活動をさせたらいいか分からなかったんじゃないでしょうか。
学生を持つ親たちはつらかっただろうと思います。
純粋に戦争を信じるわが子たちを見ていられない。 でも、少しでも違った意見は言えない状況。
たとえ一緒に住んでいる子でも。 つまり自分の子を守れないということ。
一緒に住んでいても、思想は変えられないのです。
自分の子の思想を変えられないのは現代でも一緒か。ただ、親がなにかを言えるか言えないかは大きな差。言いさえすれば、聞いていないようでも子どもの心には残ったりします。
私はおせいさんと同年代の祖母の話しか聞いたことがないので、その親世代の気持ちも聞いてみたかった。そういう資料や本があれば見てみたいです。
終戦時は今でいう文学部の女子大生
世間離れした良家のお嬢さんなども多かった模様。
上でも書いたように、進学率1%の世界です。一般庶民はあまりいなかったかもしれません。
この時日本の古典を専門に勉強していたので、後に源氏物語などの現代訳なども出版しています。 寮で薄いカレーライスを作ったり、学生食堂が途中までやってた記述もあります。 たまにこういう食材が出回ったりもしてたんですね。
おせいさんの家も空襲で燃えてしまった
当時、勤労奉仕のため平日は寮に泊まり込みで、おせいさんは自宅にいませんでした。
家族はかろうじて無事でした。
おせいさんはもともと股関節が悪くてあまり歩けなかったのですが、電車も動かなかったので自宅まで長い時間かけて戻ってきたそうです。
家が焼け落ちたのでたくさんの本などもなくなってしまったが、玄関の近くにおいたカバンを家族が持ち出してくれて、いくつかの小説は無事だったようです。
お母さんは3つあったカバンのうち2つしか持ち出せなかったのでおせいさんにあやまりました。おせいさんはとても大事にされていたんですね。
戦時中でも気丈なおせいさんでしたが、自宅が燃えた後はすっかり落ち込んでしまいました。
そして終戦。負けたと決まった瞬間から価値観はガラガラっと崩れて真反対になりました。
上の人が言うことをむやみに信じてはいけない、自分だけを信じようと思ったそうです。
それでこの世代の人たちは、明るくてユーモアもあり、強くて優しい人が多いんだなと思いました。
田辺聖子さんについて
生まれは昭和三年。
大阪で田辺写真館の長女として生まれる。下に弟、妹ひとりづつ。家には常に店員さんなどが働いていて食事は大勢で食べたそうです。
恋愛小説が多い。それも複数の男性と付き合うなど自由なもの。「猫も杓子も」面白いです。
愛嬌のあるお顔のおせいさん。系統としてはサザンオールスターズの原由子さんに似ているかな?
顔に似合わず、、等と私の母(昭和30年生まれ)は言ってます。若い頃よく読んだらしいです。
悪女とかいうイメージではなく、おせいさんは純粋な少女なのだと思います。
晩年は長く兵庫県伊丹市に住んでいて、伊丹市立図書館の名誉館長。
2019年逝去された直後から、こだわりの自宅を一般公開しようという伊丹市の希望があったが、コロナ禍で公開スケジュールが決まらず、不運にも老朽化が急激に進んでしまい取り壊すことになってしまったそう。ああ、もったいない。かなしい。
邸宅の様子はこちらの記事に見られました。NHK取材“家は人を表す” 大作家・田辺聖子の自宅
おせいさんには子供がいないが、弟の子である姪 田辺美奈さんたちと親しくしていたようです。 自分のことを「書き書きおばちゃん」といっていたらしいです。
そんな風に自分をひとことで表せるって素晴らしい。私にも人生が終わるまでに何か欲しいな~
田辺聖子さんの日記を知ってよかったこと
- 戦争の時代を書いたものは、まじめに粛々と読まなくてはいけない、と思い込んでいたが、所詮それでは他人事だったと気付いた
- 同じ土地で同じ地名・駅名を呼び人々が暮らしていて、今と変わらない
- いろんな性格や立場の人がいたのも、今と変わらない
- 大変な苦労をして時代をつないでくれたことへの感謝が深まった
最後までお読みいただきありがとうございました。